インタビュー

私らしく人生を歩みたい―。
そうは思うものの、そもそも「私らしさってなんだろう」と疑問が浮かぶ人もいるはず。
「La-Chic」では様々なフィールドで「私らしく」生きる女性=“ラシカりすと”達にインタビューしながら、読者の皆さんと一緒にそのヒントを見つけていけたらと思っています。

今回のラシカりすと

林原りかさん

林原商店合同会社

林原りか さん

いつかではなく、今を生きる。
心身ともに健やかであるために。【前編】

編集者として活躍しながら、同時に好きなことにも没頭する。仕事も、子育ても、趣味も、どれだって自分らしく、自分のペースで進めていけたら、それはどんなに幸せなことだろうか。
そう思ってもなかなか変化できない人の方が一般的だと思います。しかし今回取材する林原さんはそれを追求し、独自のスタイルを確立した1人。
そんな彼女のこれまでについて伺っていきたいと思います。

「自宅しごと」スタイルとそのルーツ

ーホームページには事業内容「編集プロダクション」とありますが、具体的にはどのような内容でしょうか?

編集業は、発信する情報を掲載する媒体に関わる部分から企画します。例えば、紙媒体では紙質やインクの種類、レイアウトやデザインなど効果的な表現方法を考えたり、記事の構成や内容を企画するところから担当します。ライターと編集者は混同されがちですが、編集者の意図に沿って文章を分かりやすくまとめるのがライターですね。

今ではブランドプロデューサーとして、商品開発や新事業の立ち上げなど、かなり深いところまで関わらせていただけることもあり、やりがいを感じています。

 

―現在はご自宅を事務所として事業を営んでおられますが、どうしてそのようなスタイルになったのでしょう?

自宅を事務所に、と考えたのは、子育てと仕事を自分が思うようにしたい…と考えたことからでした。

育児と仕事の両立を目指すとき「子どもの預け先があれば…」とよく話題に挙がります。しかし、だからといって「1日16時間子どもを見ててあげるから好きなだけ仕事をしなさい」と言われたら、多くの親にとって、それが理想の働き方ではないし、幸せな姿でもないと思うんです。

できるなら、自分で子育てはしたいし、仕事もしたい。

このように強く思うのは、私自身が「商店街育ち」であることも関係していると思っています。

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私が生まれ育った商店街のお店は、家で家族が仕事をして、もちろん子育てもしていました。今ではこうした働き方を望む人も多く、そのために退職・起業する人もいますが、本来は昔からあった生活スタイルですよね。
子どもが家族や家の近くで遊んでいて、それを地域のみんなが目の端で見守りながら、仕事もする。
そして、収入も安定して生活できている。

こういう働き方も選択肢のひとつとして再び広がるといいなと思います。

今では、私の働き方に関心を持った方たちから、働き方や生き方に関するコンサルティングや講演の依頼もあります。「幸せなライフスタイル」として関心が高まっていることを感じます。

 

 

どうやったら幸せに働けるのか
模索を続けた25年間

ー会社員時代はどのように働いてこられましたか?

最初に就いた仕事は「新聞記者」でした。この仕事は想像以上に時間が不規則で体力的にキツく、当時は男女格差・女性蔑視と感じる場面もあり、将来、子育てしながら働き続けるイメージを持てずにいました。

その後、結婚し、東京へ移り住み、事務職に就きました。

事務職はマスコミより女性が働きやすいのでは…と期待していたのですが、出産後に事務職であっても両立は難しいことに気付きました。その後、次女の妊娠が分かった頃から「自分が働き続ける方法」についてさらに考えるようになり、育休が始まってから自宅でこっそりとコピーライターを始めたんです。

そうやって働き方を模索しながら、間もなく育休が明けるという頃になって、前夫の仙台への転勤が決まりました。

悩んだ結果、会社を辞め、仙台へ引っ越すことに。在宅のコピーライターは続けながら、ウェブデザインのスクールへ通い、その後、派遣社員として地元メーカーのウェブサイトを制作する部署でコンテンツ編集を担当することになったんです。

ところが、私が新しい仕事や人間関係になれてきた頃から前夫は心のバランスを崩し、アルコール依存症を患いました。

前夫の病気と退職をきっかけに「夫の転勤についていく人生の危うさ」を実感した私は、「自分の人生の舵取りを夫に任せ、転勤のたびに仕事を辞めていては、夫に何かあったとき子どもたちを育てていけない…」
と考え、両親に子育てのサポートを頼んで、キャリアを立て直し、家計を支えるために富山へ戻ることにしました。

 

ー富山へUターンされて、地方で再び会社員生活を送られますが、家庭との両立はできたのでしょうか?

富山に戻ってきたときには、三女を身ごもっていた私は、出産後2ヶ月で失業給付金の手続きのためにハローワークへ行きました。そこで編集者の求人を目にしたんです。

私はすぐに問い合わせ、面接へ向かいました。

明日からでも来てほしい、といわれる社長に、三女が1歳になる頃まで母乳育児をしたいと考えていた私は「あと10ヶ月ほど待って欲しい」と申し出てみましたが、そんなわけにはいかず。

この仕事を逃したくない思いが勝り、産後3ヶ月から勤務を開始しました。夜8時・9時まで働くのが当たり前の業界だったこともあり、子育てや家事との両立には苦しみました。

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そんな生活を変えてくれたのはITの進化でした。GoogleのGメールやクラウドサービスが普及し始めると私はこれに注目しました。

この会社にとって初めての「子持ち女性社員」であった私は、「子育て中の女性も働きやすい」環境を整えることを提案。

メールチェックや月報入力のためだけに職場に戻り、そのために帰宅時間が遅くなることもしばしばだったのが、Gメールの転送設定やクラウドでのデータ共有により自宅でも仕事ができるようにしていきました。

会社も柔軟に対応してくれ、今も未就学児を持つ母親が活躍しています。この会社では育児をしつつ、育児情報誌の編集長や社史・自分史・学校の副読本の編集など、多くの経験をさせていただきました。今も当時の上司や仕事仲間に感謝しています。

 

 

モットーは
「ラクに暮らして、楽しく稼ぐ」

ー起業されてからは思うようなワークライフバランスを築けたのでしょうか?

いえ、そんなに簡単ではありませんでした。

私が起業を選択したのは、母や前夫の病気や娘の不登校などが重なり、これまで以上にフレキシブルに家庭と仕事の時間的バランスをとる必要性があったからでした。

最初はライターとして独立。きちんとした仕事をしてきたこともあり、どんどん依頼をいただくようになりました。いただく仕事を全て引き受けていたら、その結果、休日はなく、睡眠時間を削るしかない。

いわば「ひとりブラック企業」状態に陥っていました。

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これでは何のために好きだった会社を辞めたのか分からない。

そう気付いてからは自分のビジョンやサービス内容、顧客設定を見直しました。一方で「手間抜き家事」も研究して、ラクラクに、と(笑)。仕事と家庭や趣味とのバランスが取れたライフスタイルを少しずつ目指していきました。

今では以前に比べ、随分うまく自分のペースで毎日を過ごせているように感じます。

 

ー子育ても仕事もどちらも大切にされているように感じますが、子どもの頃はどんなお子さんでしたか?

小学生や中学生の頃から「女子だから○○できない」「『○○長』は男子がやるものだから」と決めつけられることがとにかく嫌いでした。中学生の時、生徒会長に立候補したことがありました。そのときも「女子は『副』会長をするものよ」と先生から反対されましたが、立候補して、その中学校で初めての女子生徒会長を務めました。

性別などで決めつけるのではなく個人としてみてほしい、個性や多様性を認めて欲しいと訴え、自分の考えははっきりと口にする子どもだったと思います。

 

 ・ ・ ・ ・

子どもの頃から漠然と感じてきたジェンダーギャップを大人になってから、はっきり意識し、状況を変えようと行動し続ける林原さんは、現在自身の事業だけでなく、命や心の大切さを啓もうする団体「とやまcocolo会」の代表として、マイノリティの人たちを支援する活動もされています。

仕事も家庭もバランスよく生活し、そして無理なくラクに日常を送ろうとしてきた林原さんの歩み。途中で諦めたり、妥協したりしない姿には、自分らしく生きるためのヒントがたくさんあったように感じます。

後半では、林原さんを語る上で欠かせないトライアスロンや本とのかかわり方、そしてこれからの夢や目標について伺います。

 

―後編へ続く。

 

林原りかさん
プロフィール

林原りか さん

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林原商店合同会社 代表
ブランディングエディター
コラムニスト
コーチ